3457052 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

清めの塩は何のために?

京都府宮津市が
「清めの塩を死者を冒涜することになるとして廃止を呼びかけた」
という記事がありました。

仏教家としてこの問題に意見を述べたいと思います。

まず穢れには死穢と血穢があります。
死穢とは亡くなった人に触れることによって生じる穢れであり、
血穢は血に触れることによって生じる穢れです。

面白いことに死穢についてはその伝染の仕方まで決まっています。

今では迷信と思われそうですがそうではありません。
伝染病などで死んだ場合実際に感染します。
感染するごとに毒性は弱まるといわれていますので、死穢の伝染に
ついては統計的なものとも考えられます。

殺菌作用のある塩で清めたのも科学的な根拠の
ないことではありません。

浄土真宗では塩による清めを行わないとも言われていますが、
ごく最近広まった習慣のようで昔からではないようです。

ですから清めの塩は根拠がないとは言い切れません。

前述の宮津市では「葬儀に参列した人が塩で清めることの
『清め塩』について、市民が何の疑問も持たずに、それが当然と
思い込んでいる人たちが多いことから、このような風習に
とらわれない生活をとの願いで啓発しているものです。」
と言っていますが疑問を持っていないのはどちらでしょう?

また死に対する穢れの意識というのは根強く存在します。

最近では散骨が広まっていますが、どこかでお骨を撒こうとすると
必ず反対が起こります。

葬祭場、火葬場を建設しようとすると必ず反対運動が起こります。

われわれ僧侶が法服で病院に行くと高野山でもない限り
嫌がられます。

お骨・骨壷などは漠然と気味が悪いと思われています。

これらは確かに差別と関係ないとは言えませんが、行政が
「清めの塩の廃止を呼びかけることによって」
なくなるものではありません。

むしろきちんとした宗教教育を行い、死の儀式である葬式に参加させ、
一人一人が死というものにきちんと向き合うようにならなければ
「死」に対する気味悪さはなくならないと思いますし
差別もなくならないでしょう。

2006年05月05日


© Rakuten Group, Inc.